大切な人〜前編
 春の暖かい日差しが照りつける午後。市民の憩いの場として人気のある自然公園内には、大
勢の人々が集まり、思いおもいのやり方で休日を過していた。広い公園内に設けられた芝生が
広がる広場には、沢山の家族連れがシートを敷いて、弁当を食べたり、子供と遊んだりしてい
る。
 そんな春の暖かい平和な光景の中を、髪の毛を黒髪に近い茶髪に染めて、デニムのパンツを
穿き、チェック柄の長袖のシャツを着込んだ社太助が歩いていた。
 その社の横を歩くのは、セミロングの黒髪を風に靡かせて、マーメイドシルエット風のスカ
ートを穿き、長袖のブラウスを着ている尾田島淳子が歩いている。右手にはバスケットを持っ
ていた。
 仕事で忙しい毎日を送っている二人は、たまには日曜日の休日に、のんびりと過そうと自然
公園に来たのだ。尾田島が持っているバスケットの中には、昼食に食べようと持って来た弁当
が入っている。
 いつまでも休まずに公園内を歩き続ける社に、尾田島は段々とイライラとし始めていた。な
にしろ、敷地の広い事で知られる公園内を、かれこれ十分以上も歩いているのだ。弁当を食べ
るのに手ごろな場所など、目隠ししてでも見つかるというのに。
「太助。もうそろそろ休まないか?私は疲れたぞ。弁当を広げる場所などいくらでもあるでは
ないか。・・・」
「う〜ん。もう少し付き合ってよ。・・・前に散歩をしていた時に、いい場所を見つけたんだ

「そんなにいい場所なのか?・・・」
「ああ、俺はピンと来たんだ。公園に来たら、その場所に淳子を案内しようって」
「どんな所なんだ?」
 そんなに社がこだわるのは何故なのか、尾田島は興味を引かれた。
「言葉では難しいなぁ。・・・見れば分かるよ」
「分かった。太助の言葉を信じよう。つまらぬ場所だったら、弁当は食べさせないからな」
「おいおい。そりゃないよ。・・・」
 厳しい事を言われて、急に自信のなくなった社は、慌てたように抗議した。本気で言ったつ
もりのない尾田島は、その様子が可笑しくて、クスクスと喉を鳴らして笑った。
 公園内を散策する二人は、軽い談笑を繰り返しながら、社の目的の場所へと近づいていた。
 その場所は、芝生を植えてある広場の端にあった。公園の舗道近くにある小さく隆起した丘
。そこが社の目的地だった。
 その丘の頂上には、桜の木が一本だけポツリと植えてある。この頃の春の陽気によって、そ
の桜の木は、薄紅色の花をつけて満開になっていた。
 社はその光景を見ながら、指差して言った。
「ここだよ。ここ」
「この場所がそうなのか?」
 尾田島は立ち止まり、見事に咲き誇る桜の木を見上げた。
 公園内には、桜の木がたくさん植えてあり、花見の名所として有名な場所でもある。それな
のに、その桜の周囲には、桜の木も他の種類の木もない。丘の上に植えられた桜の木が一本だ
け立っているのは、うら寂しく感じる。何故、このような場所に桜の木が一本だけ立っている
のだろうか。尾田島は不思議に思わずにはいられなかった。
「このような場所に一本だけ桜の木が立っているなんて、寂しい感じがする」
「でも、凄く立派な桜の木だろ?」
「ああ、そうだな」
 丘を包み込むように枝を広げた桜の木は、とても大きくて立派だった。樹齢を調べれば、か
なりの高齢な木になるのではないだろうか。
「なんでか分からないけど、この場所がすごく気に入ったんだ」
 社はそう言うと丘を登り始めた。斜面はそんなに急ではなく、なだらかで高さもないので、
難なく桜の木が立つ根元あたりまで辿り着いた。尾田島もその後に続き、持って来た座敷のシ
ートを根元ちかくの僅かに残った平坦な場所に敷いた。
 二人はそのシートに座ると、視界が高くなり広く見渡せるようになった景色を眺めた。左手
には、遊歩道が見えるが歩いている人影すら見えない。右手の方は二人が歩いてきた方角で、
遠くにいくつもの人影が見える。その方角から、はしゃぎ笑いあう声や談笑の声が微かに聞こ
えてくる。
 尾田島は頭上にある満開の桜の木を見上げた。春の陽気に暖められた風が微かに吹いて、桜
の木から薄紅色の花が散り、花弁がヒラヒラと舞う。その光景をウットリと眺める。
「静かなところだな。・・・それに、桜の花が綺麗。・・・」
「いい所だろ?」
 自分と同じ気持ちになってくれたことが嬉しくて、社は微笑を口元に浮かべた。同意するよ
うに尾田島は頷くと、バスケットの蓋を開けて二人の前に置いた。中にあるのは、サンドイッ
チやおにぎり、鳥のから揚げなど。それにお茶の入った小さな魔法瓶。
「うん。気に入った。私の持って来たお弁当を食べてもいいぞ」
「やった!食えなかったらどうしようって思ってたんだ」
「ふふふ!食べられてよかったな」
 さっそくサンドイッチに手を伸ばそうとした社の手を、尾田島がピシャリと叩く。
「いて!なんだよ」
「・・・私が取ってやる。何が食べたい?」
「え?・・ああ、えーと。おにぎりとから揚げ」
 社が答えると、尾田島はバスケットの中にある、ラップに包まれたおにぎりと鳥のから揚げ
を取り出した。包みのラップを開いて食べ易くする。それを社に手渡した。
「はい、どうぞ」
「おお、ありがとう」
 社が受け取ると、尾田島は嬉しそうな顔をした。
 お腹の空いていた社は、すぐに手渡されたおにぎりにかぶり付いた。おにぎりの中身はシャ
ケだった。しかも、細かくほぐしたシャケの身をマヨネーズで和えている。舌先にピリッとし
た辛い刺激がくるのも食欲をそそらされる。
「美味しいか?」
 尾田島が覗き込むようにして、社の様子を探り問う。
「うん。うまい。この後に残るピリッとしたのなに?」
「ああ、それは少量のマスタードをマヨネーズに混ぜたからだ。前に試してみて美味しかった
から、作ってみたんだ。口にあったか?」
「おれ、こういう味覚すきだわ」
「そうか?口に合ってなによりだ。ほら、お茶も飲むだろう?」
「ああ、飲む。・・・なんだか今日の淳子はいつもよりも優しいな」
「そうか?・・・うん。そうかもしれないな。・・・というか、私はいつも優しいぞ?」
 不本意だとでもいうように不満な顔をした尾田島は、魔法瓶からプラスチックのコップを取
り出してお茶を注ぐ。
「それ、なに?」
「冷たい紅茶だ。市販のジュースを移し換えただけだが」
 紅茶をコップに注ぎ終わると、社に手渡した。そして、自分の分もコップに注ぎ込んで、一
気に紅茶を飲み干した。春先の過しやすい気候とはいえ、歩き回れば喉も渇く。冷たく冷えた
紅茶をの液体が喉を潤していう感覚が心地よかった。
「ふぅ〜・・・どれどれ?どのくらい上手に出来たか確かめてみよう」
 尾田島は自分で握ってきたおにぎりを手に取ると、ラップを開いて食べ始めた。
「うん。美味い。我ながら上出来だ」
 尾田島は自分の作った昼食を自己評価しながら、から揚げも食べる。
「こんな陽気の中で、のんびりとするのは久しぶりだなぁ」
 桜の木の枝からこぼれ落ちてくる光を、気持ちよさそうに受けながら社は呟いた。そんな様
子を好ましそうに見ながら、尾田島は口の中で租借していたから揚げを飲み込んだ。
「動物病院の仕事は大変か?」
「ああ、まあね。大変だけど、好きでやっている仕事だから、辛いと感じたことはないよ」
 そう言って社は誇らしげな笑みを浮かべる。仕事にやりがいと充実感を感じている顔だった
。尾田島はそんな社の顔をまぶしそうに目を細めて見る。
 実家が小さな動物病院を営んでいて、社はその影響から獣医師になる進路を選んだ。高校時
代に獣医師を志して、獣医師の免許の取れる大学へ進学した。そして、苦労の末に大学で獣医
師の資格を取って卒業し、晴れて一昨年から実家の動物病院で働いている。
 動物病院は人間の病院と変わらず、病気や怪我など時間を選ばない。深夜でも起こされて治
療にあたることもあるし、患者の家まで出向くことさえある。休日などあってないものなのだ 。
 今日は休日ということになっているが、いつ重病の動物が担ぎ込まれるか分からない。だか
ら、社はずっと携帯電話を手放せないでいる。
「今は毎日が勉強だよ。いろんなことが起きて、いつも違う経験ができる。忙しいけど、苦し
くないんだ。むしろ楽しいと言ったほうがいいかも」
 楽しそうに言う社を見ながら、尾田島はクスリと笑った。
「よかった。私はずっと前から太助に獣医になって欲しかった。太助がそのような気持ちでい
てくれるのが嬉しい」
「淳子。・・・淳子はどうなんだ?トリマーの仕事」
「充実している。犬たちが私の手で綺麗になっていくのは、楽しいし嬉しい」
 尾田島は大学に行くかたわら、トリマーの資格を取った。尾田島がトリマーになろうと思っ
たきっかけは、自分も愛犬でトリマーまがいのことをやっていたことだった。大学を卒業して
からは、実家ちかくの動物専門の美容院で働いている。その店も最近の小型犬の人気で売り上
げが伸びているらしい。支店を増やす計画もあるそうだ。
「俺たちの仕事は順調といったところかな」
「そうだな。・・・それから、私たちも。・・・」
 尾田島が消え入りそうな声で言った言葉は、隣にいる社にも聞こえるか聞こえないかの声だ
った。でも、その言葉はしっかりと社の耳に残っていた。照れくさそうに目をそらす尾田島の
手に社の手が重なる。
 二人は公園の景色を眺めながら、懐かしくて大切な記憶を反芻していた。
 尾田島と社は高校三年生の時に愛犬がらみの出来事でお互いを知り合った。それから、いろ
いろな出来事があって、社と尾田島は交際を始めた。お互いを傷つけ合った時も何回もあった
が、何とかのり超えていく事が出来た。六年間の交際は、二人の絆を強く結びつけるのに十分
な時間だった。
 一昨日の夜に社は尾田島にプロポーズをしていた。用意してきた婚約指輪を尾田島に渡した
。尾田島が渡された婚約指輪を左手の薬指にはめる。二人にとって、一生の記念になるはずだ
った。
 社は重ねていた尾田島の左手を握った。まだ薬指にはなにもついていなかった。社はプロポ
ーズした日のことを思い出して、落ち込み始める。
「婚約指輪のこと、ごめんな。まさかサイズが合わないなんて思わなくてさ。・・・俺って最
低だよな。・・・一生に一度のことを台無しにしちゃって。・・・」
「またその話か。・・・その件は太助が悪いわけではないだろう。店の店員が注文したサイズ
を間違えたんだ。太助の落ち度じゃない」
「そうなんだけどさ。でも、やっぱりああいうのってビシッと決めた方がいいだろ」
「確かに指輪の件は残念だが、太助が私との将来のことを考えてくれていたことが嬉しかった
。今はその気持ちだけで十分」
「でも、指輪が指に合えばもっと良かっただろ?」
 尾田島は少し考えた後に苦笑した。
「・・・それは否定できんな。・・・」
「ああ〜。やっぱり。・・・」
「ああ、もう!いつまでもくよくよするな。過去はもう戻せないんだぞ。だったら、未来のこ
とを考えてみたらどうだ?」
 いつまでも、過去の事をグズグズと言う社に嫌気がさして、しょうがない奴だと言わんばか
りに、深いため息をつく。そして、尾田島は立ち上がって、少し斜面のある芝生まで移動し寝
転んだ。
「未来のこと?」
 尾田島の寝転んだ隣に社が寝転んだ。
 青い空に白く薄い雲が転々とあるだけの快晴の空が視界に広がっている。時折、風で舞い落
ちてくる薄紅色の桜の花びらが心地いい。
「その方が楽しいだろう?」
「あ、そういえば淳子のご両親に挨拶しなきゃいけないのかぁ。・・・」
 空を見ながら嫌そうに社が呟く。それを聞いた尾田島は苦笑した。
「そんなに近い未来じゃなくていい。・・・楽しい将来のことだ」
「う〜ん。そうだなぁ。・・・結婚式はかったるそうだけど、淳子のウエディングドレス姿は
楽しみかも」
「ウェディングドレスか。それは私も楽しみだな」
 女にとってウェディングドレスを着ることは、ひとつの夢であり、結婚の象徴でもある。大
人の女の中に残る乙女心のようなものなのだ。それを社が楽しみだと言ってくれることは、尾
田島にとって嬉しいことだった。
「それから、淳子がエプロン姿で家事をしている姿とか、膝枕をして耳掃除してくれるとか。
・・・」
「それは、私に家庭的なものを求めていると判断していいのか?」
 楽しそうに笑い声を喉元でたてながら、尾田島が言った。社は投げ出された尾田島の手を右
手で繋いだ。二人ともゴロンと横向きになり、お互いに顔を寄せ合う。
「そういう淳子はどうなんだよ。・・・」
「私か?そうだな。・・・太助の実家を二世帯住宅にしてお養父さんと一緒に住む。そして、
トリマーの仕事を続けながら、動物病院の仕事の手伝いもできればいいな。子供は男女一人ず
つ。ああ、犬も飼いたいな。収容所に入れられた犬を数匹引き取って飼うというのもいい」
 曖昧な将来しか思い描けない社と違って、高校時代から秀才で通っていた尾田島の言葉は、
具体的で計画性のあるものだった。
 結婚もまだしていないのに、もうそんな計画を立てているのかと、社はそら恐ろしく感じて
しまう。思わず愛想笑いがでてしまう。
「すごく、現実的というか具体的だな。・・・」
「今の私の願望だ。分かりやすいだろう?」
 そう言いながら笑った顔は、社が今まで見てきた尾田島の笑顔の中で、一番に幸せそうな笑
顔だった。その笑顔に思わず社は気持ちを引き込まれていた。尾田島の願いを叶えてやりたく
なった。
「将来になったら、それが願望じゃなくなってるかもよ?」
「そうなのか?・・・随分と自信ありげだな。期待しないで待っているぞ」
「期待しろよ」
「知らないのか?期待しないでいたほうが、叶った時の喜びが大きいんだ」
 嬉しそうに話す尾田島の顔を、社は両手で包み込むように引き寄せた。二人の顔が近づいて
、お互いの唇が一瞬だけ触れた。柔らかい唇の感触に二人は息を止めた。時間が一瞬だけ止ま
った。
「急にどうしたんだ?ビックリした。・・・」
 最初は軽いキスに驚いた顔をしながらも、すぐに照れたような表情と仕草に変わった。そん
な尾田島が可愛くなって、我慢できずに体を寄せ引き寄せて抱き締めた。尾田島のしなやかで
丸みを帯びた華奢な体を、社は自分の腕や胸で思う存分に感じた。尾田島の頭を自分の胸に押
し付けながら、暖かく日向の匂いのする髪の匂いを嗅いだ。
 抱き締めたのは愛しさが募っての行動でも、尾田島への前ふりなしのキスをしたことの照れ
隠しでもあった。
「ただなんとなく、したくなっただけ。そういう時ってあるだろ?」
「・・・・」
 尾田島は何も言わず、ただ社の体に両手をまわして抱擁を返しただけだった。相手からの自
分への愛情が胸に迫り、何も言えなくなってしまった。社の腕の中に抱かれながら、逞しい男
の胸に顔を埋める。力強い男の腕で守られる女の喜びを尾田島は感じていた。
 しばらく、そうやってじっとしていた二人だったが、腕の中にある尾田島の反応があまりな
いことに不安になった社が体を離した。
 何の反応もないと思ったら、尾田島は目をつぶり眠っているようだった。
「淳子?・・・寝ているのか?」
 声をかけると、尾田島は瞑っていた目を開いた。
「寝ていない。でも、寝てしまいそうだった。社の服からお日様の匂いがして、それが心地よ
くて。・・・」
「なるほどね」
 今日の天気は春の季節に入った一週間の中で、一番に気温が高く日差しが強かった。暖かい
南からの風も手伝って、今日の陽気は外を歩くだけで、頭をゆるゆるにほぐして、ぼうっとさ
せてしまう。
 二人は開けた丘の上にいるから、まともに日光を浴びていた。長い間そこにいることで、社
の服にお日様の匂いがついてしまったのだろう。社は自分の服ではなく、尾田島の服に鼻を近
づけてお日様の匂いを嗅いだ。
「確かにお日様の匂いがするかも。淳子の髪もそんな匂いがしていたぜ。ずっと日向にいるか
らな。・・・」
「だろう?・・・今日は気持ちのいい日だ。それにここは静かで綺麗な場所だ。満開の桜があ
って他の人はここまで来ない。こういう時は、のんびりと桜を眺めながら、昼寝をしたいと思
わないか?」
「俺もそう思っていたところなんだ。ていうか、実はそれが目的でここまで連れて来たんだ」
「お互いに仕事が忙しかったからな。たまには悪くないかもしれない」
 尾田島は社から離れて、ごろんと芝生の上に仰向けに寝転ぶ。日光に照らされて、芝生から
立ち上がってくる爽やかな深緑の匂いや、温まった土の匂いを嗅いだ。
 暖かい日差しと柔らかな南の風、微かに漂う自然の匂いに包まれて、尾田島の意識はだんだ
んと深い眠りの中へ入っていく。隣に寝転んでいた社は、そんな尾田島の様子をただ黙って静
かに見守った。
 やがて、尾田島は規則正しい吐息をたてて眠りに入っていった。寝息をたてる度に胸の辺り
が上下している。目の前にいる最愛の人は生きている。そう強く実感する。そんなことは当た
り前のことなのに、人が無防備に寝ているところを見ると、そのことを強く実感するのだ。
 社は寝乱れた尾田島の髪を手を伸ばして整える。サラサラで柔らかな髪の感触。それだけで
も愛おしさが募る。
 この人をずっと守って生きたい。そう強く思うのだった。