大切な人〜中編
 桜の木の丘で眠りに入った尾田島は、夢の中で不思議な感覚を味わっていた。自分が夢の中
にいると、はっきりと自覚できるのだ。何回かそういう夢を見たことがあったけれど、その中
でも、今回の夢は現実にもっとも近い感覚だった。まるで、映画を見るように自分が観客にな
っていると感じる。
 尾田島は、緑の生い茂る木が一本だけ立つ小さく隆起した丘に立っていた。辺りは農村のよ
うな風景が広がり、畑のど真ん中にあることが分かる。
「どこなのだここは?・・・それに。・・・」
 知らない場所にいることよりも、もっと尾田島を戸惑わせたのは、木の根元に一人の若い着
物を着た女性が、うずくまって泣いていることだ。
 取りあえずそばで泣いている女性に話を聞いて、状況を把握した方がいいと尾田島は思った

「どうしたのだ?・・・何か悲しい事があったのか?」
 そう話しかけても、着物の女性には声が聞こえないのか何の反応も示さなかった。ただ着物
の袖で涙を拭いている。
「困った。・・・」
 尾田島は途方に暮れてしまった。自分の夢の中のようなのに、自分自身ではその夢に干渉で
きないようなのだ。
「よ、淳子」
「うわぁ!・・・なんだ?太助!?」
 いきなり後ろから肩を叩かれて、尾田島は飛び上がった。後ろを振り向くと自分の肩に手を
置いた社が立っていた。
「これは私の夢ではないのか?・・・なぜ太助が。・・・もしかして、夢の中の太助?」
「なにを分けのわからないことを言ってんだ?これは俺の夢だろ」
 変な顔をして当然のように言う社の言葉に、尾田島はますます頭が混乱してくる。とりあえ
ず深く考えずに今の状況を受け入れるしかないようだ。なにしろ、夢なのだからどんなことが
起こっても不思議ではない。
「いや、いいんだ。すまない変な事を言って。・・・」
「それよりも、ここってどこだ?」
「私にも分けがわからない。・・・この着物の女性に話を聞こうにも、どうやら私の声が聞こ
えないらしい」
「女性?・・・本当だ。泣いてる。・・・だったら、あの男の人に聞いてみたらどう?」
「男?」
 尾田島が社の視線の先を追うと、確かに丘を登ってくる男がいる。二十代の若い男。その男
は泣いている女とは違い洋服を着ている。ベージュのズボンを穿いて白いワイシャツを着てい
た。
 丘を登ってくる男の視線は、泣いている着物の女の方に向いていて、社や尾田島の存在には
気づいていないかのように、まるで注意を払わない。
 男は細身の優男風で、いかにも人のよさそうな顔をしていた。少し寝癖のついた髪をガシガ
シとかきながら、丘を登りきり、泣いている着物の女性もとに近寄り声をかけた。
「どうしたんだい?こんな所で泣いたりして」
 尾田島の声には何の反応もなかったのに、着物の女性はすぐに男の言葉に袖から顔を出した

 涙に濡れた顔は生気が抜け落ちたように暗い。でも、それを補うくらいに端正な顔立ちをし
ている。目鼻立ちがすっと通っていて、おかっぱのように切り揃えた前髪が日本人形を思わせ
た。
「私の姿が見えるの?・・・」
 涙を溜めた目を見開いて、驚いた顔をする着物の女性の勢いに押されて、男は戸惑ったよう
な顔をした。
「?・・・ああ、しっかりと見えるよ」
「嬉しい!・・・でも、なんであなたには見えて、他の人には私の姿が見えないの?・・・私
の存在がまるでないみたいに皆が私を無視するの」
 着物の女は喜色の表情を浮かばせながら、戸惑ったように言った。男はその言葉に少し眉を
ひそめた。
「ちょっと失礼」
 男はそう言うと着物の女の体に手を伸ばした。すると、手を伸ばしたその手は着物をすり抜
けて、着物の女の体を突き抜けた。その瞬間に男はやっぱりという顔をして、着物の女は顔を
強張らせて泣きそうになる。
「私。・・・どうなっちゃったの?・・・」
 すがるように着物の女が男に言うと、男は伸ばした手を引いて腕を組み深いため息をついた

「君にも薄々は感じるところがある筈だよ。・・・いや、もう分かっていて知らない振りをし
ているだけかな。・・」
「だって、・・・嘘でしょう?・・・私。・・・」
 信じたくないとでもいうように、着物の女は顔を絶望したような顔をして首を振った。
「いや、これは事実だよ。・・・僕の家系には代々に渡って不思議な能力を身に付ける者がい
てね。それが僕に受け継がれた。僕には死んだ者を見る力がある。・・・ここまで言えば、君
にも分かるはずだよ?」
「嘘。・・・私。・・・死んだの?・・・嫌よ!私にはまだやりたいことがあったし、何もせ
ずに死んでしまうなんて!」
 聞きたくないとでもいうように着物の女は、両手で耳を塞いで嫌々と顔を振った。そんな様
子を男は困ったように見ながら、優しく諭した。
「受け入れなくちゃいけない。そうでないと、ずっと幽霊のままで彷徨わなくてはいけなくな
る。君には恨みの邪気は感じられない。ということは、なにか未練がこの世にあるということ
だ。心当たりはあるかい?」
 着物の女は黙ったまま首を振った。男は困ったような顔をして、腕を組んだまま考え込んだ
。そして、何か思いついたのか、腕をといて言った。
「そうか。・・・それじゃあ、これから君の未練がなんなのか、二人で探そう。よかったら僕
と一緒に過してみないかい?」
「あなたと?・・・」
「そう。僕と。ここで出会ったのも何かの縁だろう。・・・ちょうど一人で生活するのが嫌に
なっていたところなんだ。君がよければだけど」
「一緒にいさせてください。・・・もう私は一人になりたくない」
 自分の存在を認めてくれる人が現れたのだ。着物の女は男とこのまま別れて一人になりたく
なかった。
「そうか。・・・じゃあ、決まりだ。僕の名前は瀬崎敬一郎。しがない物書きをして生計を立
てている。君は?」
「私の名前は立花優子。・・・」
 女の名前に心当たりがあったのか、瀬崎は記憶を掘り起こすように右上に視線をやった。納
得したように瀬崎は頷いた。
「立花優子。・・・そうか!君はこの農村の一帯の土地を持つ大地主の娘だね」
「私のことについて、なにか聞いているんですか?」
 すがるように聞いてくる立花に瀬崎は言いにくそうに答えた。
「ああ、君には辛い話だが、先日に流行り病で亡くなったと村人から聞いたよ」
「そうですか。・・・」
「君には辛いことだろうが、受け入れてほしい。そして、君は早く成仏しなくちゃならない。
君の心残りがなんなのか一緒に探そう」
 ガックリとうなだれて涙を流す立花に瀬崎は慰めるように言ったのだった。
 
 瀬崎に連れられて降りていく立花のうなだれた姿を見ながら、社はひとりごちた。
「なんだか、すんげー重い雰囲気だから話しかけられなかった」
「いや、たぶん声をかけても、何の反応も示さなかっただろう。近くにいた私たちにまったく
気づいた様子がなかったからな」
「でも、何だってこんな場面を見ているんだろうな。ただの夢にしちゃあ出来すぎだぜ」
「わからない。でも、何か重要なことのような気がする。・・・」
「それってなに?」
「それは。・・・わあ!」
「なんだ?」
 突然に自分たちのいる空間が暗転して真っ暗になり、また明るくなったと思えば、一瞬で移
動したように他の場所に飛ばされていた。


 社と尾田島の今いる場所は、長屋のような場所で、八畳くらいのワンルーム。畳の床に古ぼ
けたタンスや小さな円形のテーブル。その周りに均等に配された座布団。天井には裸電球がぶ
ら下がっている。まるで日本の古い時代の映画の風景そのままだ。
 その部屋には開け放たれた窓に、寄りそうように置かれた座机に瀬崎が肘をついてタバコを
吸っていた。視線を窓の外に彷徨わせて、何か考えているように見える。
 机の上には原稿用紙が乱雑に何枚も広がっている。それらの原稿用紙には書きなぐったよう
な文字が並んでいる。何かの構想を練っているようだ。
 二人が瀬崎の観察に飽きてきた頃、部屋の中で劇的なことが起こった。部屋の白い壁から、
着物を着た若い女性がすり抜けて来たのだ。その光景は映画に出てくる幽霊の登場シーンにそ
っくりだった。部屋に入ってきたのは立花優子。
 今まで窓の外を見て考え込んでいた瀬崎は立花の存在に気づいて後ろに振り向いた。そして
、その姿を認めると微笑んだ。
「おかえり」
「ただいま。・・・」
 瀬崎の挨拶に答えるように返事をした立花は、小さな声で返事をした。その声は綺麗だった
が、暗く沈みこみ抑揚がなかった。立花は部屋の真ん中に置いてある円形のテーブルの横に、
静かに浮かんで移動して座った。
「どうしたんだ?・・・元気がないようだけど。・・・」
「なんでもない。・・・」
 長いロングストレートの髪をしているので、顔を傾けている立花の表情まで窺い知ることは
できない。
「なんでもなくはないだろう。・・・」
 瀬崎は苦笑すると、タバコの火を机の上の灰皿に押し付けるように揉み消して、立花の方へ
歩み寄った。瀬崎が近寄ると、立花はそれを避けるように体を横に向けた。それを気にせず、
瀬崎は体を横に向けた立花の正面に座った。
「なんで避けるのかな。・・・優子さん。顔をあげて見せてごらん」
 俯いた着物の女の顔を覗き込むようにして男が言った。すると、立花は言われたとおりに顔
をあげた。立花は困ったように眉根を寄せながら、瀬崎の視線を避けるように少し顔を横に向
けた。
「やっぱり元気がない」
「そんなことないよ」
 言葉を微笑んで否定しても、明らかに立花の表情は強張っていた。
「だったら、何でそんな目をしているんだ?」
 横顔になった立花の顔に手を伸ばして、目の周りの泣き腫らしたような跡をなぞるように指
を滑らせた。立花は少し驚いた顔をして瀬崎を見た後に、唇を噛み締めた。
「敬一郎さんには分からないよ。私の気持ちなんて。・・・だから放っておいて」
「そんなこと聞いてみないと分からないだろ。そんな顔されて僕が黙って見ていられると思う
か?」
「それは。・・・」
 痛いところをつかれて立花は言葉に詰まった。そして、腕を組んで詰問するように表情を引
き締めた瀬崎を、上目遣いで見上げた。
「話さないと駄目?」
「話さないと駄目」
「うぅ〜。あ〜あ。なんでばれちゃったんだろう。目のはれ治まったと思ったのになぁ」
 両手を目元にやって、がっくりと肩を落として立花はぼやいた。そんな立花を見て敬一郎は
苦笑した。
「そんな跡がなくても、雰囲気で気づくよ。・・・話してくれないかな。楽になることもある
だろ?」
「そうかもしれないけど。・・・」
 瀬崎とはお互いに手の届く距離で向かい合って座っていた。立花は意を決したように口を開
いた。
「私、今日、実家に帰ってみたの。やっと帰る決心がついたから。・・・とっても懐かしかっ
た。・・・」
「実家に?・・・家族の人は元気にしていたかい?」
「・・・」
 立花は実家の事を反芻しているのか、懐かしそうに微笑んだ。でも、その笑顔は長く続かな
かった。寂しそうな顔に取って代わり静かに目を伏せる。
「私は親不孝者だな。・・・」
「何でそう思うんだ?」
「だって、親よりも先に死んじゃったんだもの。・・・お父さんてさ、私が小さい頃にお母さ
んに先立たれてから、ずっと一人身なんだ。良縁の話もあったんだけれど、断ったみたい。ず
っとお母さんに義理立ててる。きっと一人っ子の私を気遣っていたのね。それなのに私は。・
・・」
 喉元にくるなにかをグッと耐えるように、立花は唇を引き結んだ。
「それは優子さんのせいじゃない。気をつけていても流行病で亡くなる人は何人もいる」
 瀬崎は立花に言い聞かせるように言った。立花はそんな優しい瀬崎の言葉に感謝しながらも
、首を横に振った。
「私がお父さんを見つけた時、居間のところで一人で酒を飲んでいたの。あんな寂しそうなお
父さんの背中を始めて見た。・・・」
 立花は辛そうに眉根を寄せた。瀬崎はただ黙って立花の言葉を聞いている。
「私ね。そんなお父さんの姿を見るのが辛くて、思わず声をかけちゃった。そんなことをして
も無駄なのに。・・・私ここにいるよって。でも、お父さんは気づいてくれなかった。ただ懐
かしそうに写真を見るだけなの。・・・」
 立花の口調が段々と速くなり、激情を抑えようとする気持ちが声を上ずらせる。涙が頬を伝
い止まらなくなった。
「それでね。お父さんに気づいてほしくて、肩を叩こうとしたの。・・・でも、そんなことし
てもすり抜けちゃう!・・・当たり前だよね。だって、私は死んでいるんだし、この世にいら
ない存在なんだもの!」
「優子さん。もういい。・・・もう辛いことは思い出さなくてもいい」
 瀬崎の声が立花の嘆きの言葉を止めさせた。涙でグショグショになった立花の顔を両手で包
み込む。
「ごめん。無理矢理聞き出すようなことをして。・・・でもさ、悲しい事を言うなよ。・・・
僕は優子さんの存在を確かめられる。そうだろう?」
 瀬崎は立花の顔の輪郭をなぞるように手を動かした。
「敬一郎さん。・・・」
 涙をポロポロと落としながら、泣き笑いの表情を浮かべた。瀬崎は相手の目を見つめながら
、手を元に戻した。そして、立花につげる。
「両手を前に出して。・・・」
「・・・?」
 立花は瀬崎の真意がわからず戸惑ったような顔をした。それでも、ただ黙って両手を前に差
し出した。瀬崎は差し出された両手に自分の両手を合わせた。
「手を動かしてみな」
 言うとおりに立花が両手を動かすと、それに合わせるように瀬崎の手が動いた。
「触れる事が出来なくても、優子さんの存在を確かめられているだろう?」
 瀬崎の言うとおり。立花が手を動かすたびに瀬崎の手も同じように動いた。瀬崎の手がすり
抜けることもなく、まるで本当に手を触れあっているように見える。立花の表情に先程までと
違う明るい表情が出てきた。何度も頷きながら、自分と瀬崎の手の動きを嬉しそうに見ている

「ありがとう。敬一郎さん。あなたと出会えてよかった。・・・」
 二人は微笑みあい。そして、何度もお互いの存在を確かめ合っていた。

 その夜。布団を敷いて眠りについている瀬崎を、立花が傍らで目を細め愛しそうに見ていた
。だんだんと距離を詰めて、穏やかな寝息をついている寝顔を見詰める。そして、そっと瀬崎
の唇に自分の唇を押し当てた。
「好き。・・・敬一郎さん。・・・好きです。・・・」
 自分の気持ちに気づいたことの喜びに、今までないくらいに立花の顔は輝きを放っている。
立花は寝顔を見詰めながら、何度も「好き」と呟いた。感情が高ぶり、好きと呟きながら何度
も口付けをする。
 自分の身体はないから、相手に自分がしていることは分からないだろう。そう立花は思って
いた。ただ相手が自分の唇を感じる事ができないように、自分も相手の唇の感触を味わうこと
が出来ない。虫のいい話かもしれないが、それが立花には悲しかった。
「好きです。・・・」
「僕も君が好きだよ。・・・」
 何度目かの口付けの後、突然に瀬崎がそう言って目を開いた。
「敬一郎さん!・・・起きていたんですか?」
 ちょうど口付けをしようと迫っていたところだったので、恥ずかしそうに頬を染めて飛び上
がり、両手を口に当てる。
「なんだか唇に感触があったような気がしてね。それで気づいたんだ」
「唇に?・・・でも私には身体がないのに。・・・」
「そう感じたんだ。不思議だろう?」
 瀬崎は照れくさそうに笑いながら上半身を起こした。
「ごめんなさい!寝こみを襲うようなことをして。・・・私、もうこの家にはいない方がいい
ですね。・・・」
「ちょっと待って。・・・君がそんなことを気にする必要はないよ」
「え?・・・」
「聞いていなかったかな。・・・僕も君が好きだ。いつ頃からなのか分からないけど。この半
年間を一緒に過して、とても楽しかった。君に言われて気づいたんだ。僕も君が好きだってね

 瀬崎はそう言って、ねぐせのついた髪を照れくさそうにガシガシとかいた。
「でも、私は。・・・」
 戸惑ったような顔をして、何か言おうとする立花に瀬崎は手で制して止めた。
「いいんだ。好きになってしまったものはしょうがない。こうなったら、いける所までいくし
かないんだ。その先がどんなことになるのか、分からないけどね」
「敬一郎さん。・・・」
「さん付けはいらない。呼び捨てで呼んでくれてかまわない」
 瀬崎はそう言って愛しそうに微笑む。その視線を受けた立花は恥ずかしそうに嬉しそうに俯
いた。そして、コクリと頷く。ゴクリと唾を飲み込んで、意を決したように瀬崎を見た。
「け・・・敬一郎。・・・」
 立花は緊張した面持ちで瀬崎の名前を呼んだ。
「おう。なんだい優子」
 瀬崎は嬉しそうに笑顔を浮かべて言い返した。
 好きな人の名前を呼び捨てにすると、何故こんなにも幸せな気分になるのだろう。気恥ずか しさと嬉しさが二人の胸を満たした。

「ラブラブって感じだな」
「うむ。しかも、かなり初々しい」
 甘い雰囲気になりモジモジとし始めた立花と瀬崎。そんな二人のラブ熱にあてられてしまっ
た社と尾田島は、どこかそこらでゴロゴロと床を転がりまわりたい心境だった。
「ちょっとさ、俺たちお邪魔なんじゃないの?」
「そんな事を言っても、この部屋から出て行こうとすると、体が動かない。恐らくこれは、映
画を強制的に見せられるのと同じだと思うぞ。・・・」
「じゃあ、黙って見ているしかないのか。・・・」
「まあ、いいじゃないか。どうせ夢の中でのことなのだからな」
 そう言う尾田島の目はキラキラと輝いていた。そんな尾田島を見た社は、呆れたような顔を
した。
「女ってこういうの好きだよな。・・・」
「好きってわけじゃない。ただ興味深いだけだ」
 ほとんど意味は同じなんじゃないかと思ったが、社は黙っておくことにした。そして、自分
も尾田島と同じように二人を見守った。